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敗戦の責任 八重の桜 今思うこと

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流れは諸侯会議だったと思う。大政奉還から王政復古へと、ここまでは理解できる。天皇の臣下たちの権力争いである。旧幕府も新政府側も所詮支配者階級すなわち武士階級である。それも殿様たちである。

慶喜も徳川幕府は返上したが、諸侯会議で中心人物になる目論見であったことは明らかである。辞官納地後でも大大名の地位は保っていられると考えていた
島津久光、山内容堂、松平春嶽などとの論戦では負けなかったからである。

天皇のもと国家首班に就く思惑だったとしても当然であったろう。将軍なのだから!。

鳥羽伏見の戦い。旧幕府軍15,000名そして新政府軍5,000名の
戦いである。数のうえでは新政府軍は不利であったが装備でカバーしたのである。淀の戦い、橋本の戦いなどの敗北で慶喜は自分のもくろみか崩れていくのを感じたに違いない。

ここまでも理解できる。戦いに誤算とタイミングのよし悪しはつきものである。
慶喜は大阪城にいた。大阪城で徹底抗戦を説いたという。
それが陣頭指揮に立つべき将が夜陰にまみれ城を脱出したのである。

会津藩軍事総督 神保長輝が敗戦の責任を問われることになった。
その責任を一身に受け自刃したのである。
諸侯会議の国家首班から大阪城脱出、神保長輝の自刃まで会津藩からみた
景色はいかばかりであったろう。

敗戦の責任としたサブタイトルの意味するところ大河ドラマの真骨頂である
会津の人々の心中察するに余りある お思いである






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